「二条河原落書」のネタ帳


by miya-neta

高松宮妃喜久子さま死去:「菊と葵」の生涯 最期まで凛と

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 「もう余命いくばくもないと思いますけれども、何とか皆様のお力を拝借して生きている限りは世の中のために尽くしたいと思っております」

b0067585_826690.jpg長崎県島原市で開かれた全日本実業団サッカー選手権大会に出席した高松宮ご夫妻=1960年9月21日撮影

 01年12月4日、宮邸(東京都港区)で開かれた「高松宮妃殿下卒寿を御祝いする会」で、高松宮妃喜久子さまは、参会者を前に車椅子に座りながらこうあいさつした。18歳で嫁ぎ、皇族として初めてハネムーンを兼ねた14カ月間26カ国の「世界一周」旅行の思い出などを語った喜久子さま。よどみない言葉は張りがあり、その2年前から骨折や十二指腸かいようなどで入退院を繰り返していたとは思えない力がみなぎっていた。そこには皇族として、そして最後の将軍・徳川慶喜の孫として明治から平成の四つの時代を「凛(りん)として生き抜いた貴婦人」としての姿勢が貫かれていた。

 一枚の写真がある。慶喜公が死去する約9カ月前に撮影されたもので、1歳2カ月の喜久子さまを抱いている。慶喜公の七男で、家督を相続した慶久氏を父に、有栖川宮威仁(たけひと)親王の実枝子女王を母に、東京・小石川の徳川家で誕生。祖父と父の名から一字ずつもらった喜久子さまは、「銀の匙(さじ)」を持って生まれた。しかし、活発な幼年期を送ったようで、後年、雑誌のインタビューなどで「木登りが好きで、弟の自転車を乗り回して遊んでいた」と語っている。

 故高松宮さまとの初の海外訪問でも、車に乗るとすぐに寝てしまい、訪問したスペイン国王に話題にされるなど「お姫さま育ち」という枠に収まりきらない闊達(かったつ)なところがあった。運転免許を取得、自らハンドルを握り、スピード違反で警察に注意されたり、故秩父宮勢津子さまと“変装”して、お忍びではとバスツアーの「花魁(おいらん)ショー」を見物したりするなど、おきゃんなところがあった。

 また、高松宮さまが残した「日記」の出版を巡って、当時の宮内庁首脳は「高松宮さまが公になることを前提で書かれたものでない」などと反対したが、「戦争当時、皇族がどのように思っていたかなどを国民にも知ってもらいたい」と強い意志をもって出版に踏み切った。

 さらに、皇太子ご夫妻の長女敬宮(としのみや)愛子さま誕生後、月刊誌で女性天皇について、「考えておくのは、長い日本の歴史を鑑(かんが)みて決して不自然なことではない」と容認の考えを率直に語っていた。

 00年6月、香淳皇后が死去した際には、遺体が安置されていた皇居・大宮御所(当時)に車椅子に乗って一人で訪れ、ひつぎの前で長い間涙を流したという。

 関係者によると、遺産などについて、すべて文書にして後事を託していたといい、最期まで凛として「菊(皇室)と葵(徳川家)」の生涯を閉じた。【大久保和夫】

毎日新聞 2004年12月19日 3時00分
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by miya-neta | 2004-12-20 08:24 | 女 性