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「二条河原落書」のネタ帳


by miya-neta

記者の目:小6同級生殺害 被害者として取材して

MSN-Mainichi INTERACTIVE 話題


 小6同級生殺害事件が起きた長崎県佐世保市の市立大久保小学校で17日、卒業式があった。命を奪われた御手洗怜美さんの代わりに、卒業証書をもらった父親の恭二さんは私の上司である。悲しみを背負いながらも、学び舎(や)を巣立つ同級生。怜美さんの遺影。その光景を目の当たりにして「被害者として取材する」という二度とはないであろう体験をしたことを、改めて実感した。【佐世保支局・川名壮志】

 御手洗さんが支局長を務める毎日新聞佐世保支局は支局長と記者2人という小所帯。1階が駐車場、2階が支局、3階が支局長の住宅で、一家とは家族同然だった。だから、私は被害者側でもある。一方で、そっとしておくべき身内を取材する人でなしと見られるのでは、という思いもずっと感じ続けていた。

 昨年6月1日。事件の始まりは、支局長からの電話だった。「怜美が死んだ」。耳を疑った。うそでしょ? 何で……。声にならない思いが交錯した。ほぼ同時に、長崎県警担当の記者から「小学校で女児殺害」の一報も飛び込んできた。

 あわてて福岡本部のデスクに電話を入れたことを、私は忘れない。同僚の愛娘が「被害者」という事実を確認したデスクは、一呼吸置いて「夕刊に入れるぞ。電話で内容を伝えろ!」と続けた。足がすくむ。言葉がのどにつまる。「この人は鬼だ」とぼうぜんとした。時計を見上げると、午後2時前。締め切りギリギリの時間だった。

 怜美さんはいつも、ランドセルを背負ったまま支局に駆け込んできた。「ただいまあ」。明るい声が支局を和ませていた。でも、あの日から、私は事件にどっぷりとつかった。昼夜を問わず同級生、保護者、警察、教師の自宅を回る毎日。私情は許されない。

 だが「特別な状況」が取り巻いていた。仕事場である支局の上には、被害者の父がいる。私が行けば話は聞けるだろう。しかし「被害者側であること」を利用することはできなかった。「取材は弁護士を通して、各社と平等にする」ことを取材班で申し合わせた。

 加害女児の供述には、被害者の中傷になり得る内容もあった。それでも、この事件だけを特別視することはできない。「他の事件で原稿にしてきたことは、この事件でも記事として掲載する」ことも決めた。

 被害者の実名が連日掲載されることがより悲しみを深くさせることに、支局長の指摘で初めて気づいた。被害者の実名はなくても、記事は成立する。実名がないことで、支局長は冷静に記事を読めたという。

 取材は心身共に緊張を迫られるものだったが、そんな中でもふっと思い出がよみがえってきた。シャイな支局長が娘と手をつないで歩く姿。事件前日「雨がやんで運動会ができて良かった」と話した彼女の笑顔。事件半月後、支局長宅での焼香。そして、12歳の遺骨。悔しさが爆発し、鼻水と涙がこぼれた。

 あれから9カ月半。支局の3階には今、誰もいない。マスコミの会見に応じた支局長の「(記者として)逃げられない。逃げてはいけないと思った」(12月27日本紙)ほどの覚悟も信念もないまま、私はまだこの事件に携わっている。ガランとした支局長宅の居間に立つと、自分がしてきたことに、再びぼうぜんとなる。

 加害女児はなぜ、同級生を学校で殺害したのか。取材の焦点は、まさにこの点だった。「インターネットで悪口を言った」「『重い』と中傷された」「交換日記でトラブルがあった」。加害女児を児童自立支援施設送致とした長崎家裁佐世保支部の決定などから、動機が報道された。だが、取材すればするほど、どれも殺人の一線を超える理由とまでは思えなくなる。

 加害女児は、児童自立支援施設で12歳になった。今も、犯した罪の重さを十分に認識できないという。動機もはっきりしない希薄な理由で人を殺してしまう。再発防止のため受け継ぐべき教訓がはっきりとしないことに私自身、いら立ちもある。

 事件直後、加害女児の両親から謝罪面会の申し入れを受けたが、支局長は「今はまだその気持ちになれない」と応じなかった。一部メディアはこれを「面会拒否」と報じた。

 一つの言葉が描き分ける印象の違いが、被害者を更に傷つけることを痛感した。

 私は今後も記者として、数々の事件を取材するだろう。だからこそ、被害者側にいた今回の経験を、生かさなければならないと強く思う。

毎日新聞 2005年3月23日 0時38分
by miya-neta | 2005-03-23 12:16 | 社 会