「逆風満帆」 フリープロデューサー 木村政雄(上)
2004年 12月 04日
ラジオの生番組「吉田照美のやる気MANMAN!」に出演。吉本退社後、メディアへの登場が一段と増した=東京都新宿区の文化放送で、郭允撮影
■紳助を「サンプロ」に
「何にもなしにやったわけではなく、それなりの伏線があったのかもしれないが、手を出してはいかん」
タレント島田紳助(48)の事件について、木村政雄(58)はこう感想を漏らす。事件は10月。島田が所属する吉本興業の女性社員に暴行をはたらいた。島田は書類送検され、芸能活動を自粛している。
木村は一昨年10月に吉本を退社した。暴行に弁護の余地はないが、今でも島田に思い入れがある。「手塩にかけて育てたのですね」と尋ねると、「いやいや」とかわしながら、二十数年前、島田が主演に抜擢(ばってき)されたテレビドラマの台本を取り出した。
制作協力として木村の名が印刷されている。ページをめくると、出演者のギャラが書き込んである。横山やすしは2日で24万円。1日で30万円余りの大物もいる。主役といっても、ツッパリ少年役の島田は、当時コンビの松本竜介と2人合わせて10日で7万円足らずだった。
「はじめはこんなんだったんですよ。びっくりでしょ」
リーゼントヘアとつなぎ姿がトレードマークの島田らはその後の漫才ブームに乗って見る見るうちに全国区の売れっ子に育った。
89年、制作部次長だった木村は島田を日曜朝の硬派テレビ番組「サンデープロジェクト」の司会に売り込んだ。桂文珍を、という指名だったが、ひっくり返した。
「紳助も30歳をすぎて、大人のタレントにせないかん時期でした。ここで知識人や政治家、財界人を相手にすれば怖いものなくなるでしょ」
島田は初回前日、「自信がない」と自宅に引きこもってしまい、木村がなだめ、励まし、スタジオに送りだしたという。いい思い出だ。
島田にとって木村は、大事な恩人のひとりとなった。
■閑職異動で吉本退社
事件に話を戻そう。
島田は、暴行する直前に被害者の女性が会話の中で木村の名を呼び捨てにした、と主張している。
女性は漫才ブームの80年ごろ、熱心なファンのひとりとして吉本の東京事務所に出入りしていた。そこは木村の職場。女性は木村だけでなく、仕事で上京した島田とも顔を合わせていたようだ。
「ユニークな子でね。みんながザ・ぼんちのファンクラブをつくっている横で、若い女性にはあまり人気のない別のコンビのファンクラブをせっせとやっていました」。木村はその女性を覚えている。
女性にしてみれば古い付き合いのつもりだったのかもしれない。しかし、木村に恩義を感じる島田には呼び捨てが許せなかった――。こう読めないこともない。しかし、女性の弁護士は「後につけた理由」と指摘する。それに呼び捨てただけで暴行とはあまりに飛躍している。
「背景には木村君の退職があります」。業界の重鎮のひとりが解説する。
「木村君が辞めてから、吉本の芸人や社員は彼の話をしなくなりました。彼と親しいと思われると、上からにらまれるかもしれないでしょう。義理堅い紳助はそれが悔しくてならなかった。女性が話した真意や文脈はわかりませんが、紳助は女性がそういう社内のムードにのって木村君を侮辱したと感じたのではないでしょうか」
木村が吉本を辞めた直接の引き金は、子会社・グループ事業戦略本部長への異動。閑職だった。
もっとも、その数年前から前兆はあった。吉本の東京進出やさまざまな新企画を成功させてきた木村は、マスコミから「ミスター・ヨシモト」と呼ばれ、講演やメディアに登場する機会が増えていた。木村は吉本の宣伝になると思って引き受けていたが、オーナー一族の上層部は快く思わなかったようだ。並行して、木村が提案した企画も受け入れられなくなっていた。
「何でもおもろいことやろ、いう吉本らしさがなくなった。経団連に入ったり、ROE(株主資本利益率)がどうのとか数字ばっかり追いかけたりして。そんなええ格好して、立派になってどうすんの。そうは言ってもお笑いですがな、という姿勢がないとねえ」=敬称略
きむら・まさお 46年京都市生まれ。同志社大学文学部卒。69年吉本興業に入り、漫才コンビやすし・きよしのマネジャーを経て、80年に新設の東京事務所で「漫才ブーム」の火付け役となる。97年常務、02年退職。現在、人間力養成講座「有名塾」(http://www.senkusha.jp/juku/)塾長。
(高谷秀男)