「能楽 喜多流宗家と職分会の対立」(東京新聞2002年記事一部 他)
2006年 06月 01日
THE TOKYO SHIMBUN MEIRYU
和泉宗家に限らず、能楽宗家のご難が続いている。数年前だが、シテ方喜多流の喜多六平太宗家が財団を私的に使ったとして理事長の座を追われ、喜多流職分会自主公演の能会 となり、宗家は弟子たちから離反され、対立はいまも深まる一方だ。 ...
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秦恒平・私語の刻 6 ー生活と意見ー
* この頁には、平成十二年五月一日以降、八月末日迄を日付順に収める。
以降分は、「私語の刻 1 」で日々更新進行中。
闇に言い置く
* 五月二十七日 土
* 友枝昭世の「松風」は美しかったけれど、この演者のあまりに健康なためか、松風村雨の姉妹がなかなか幽霊とは映ってこないのが難、大きな難であった。能は大方が幽霊をシテにしている。例外は少ない。その中でも、演者によって得手不得手の幽霊がある。松風村雨のような善意の美しい女人幽霊を昭世が演じると、そのまま現世の肉体美を感じさせてしまう。なるほど、この辺にこの名手の課題があるのだなと思い当たった。
宝生閑のワキが、例のねばっこい謡ながら、深い存在感をみせた。
鼓打ちの行儀がわるく、乾くのか鼓の皮にしきりに唾でシメリを呉れる。緒をいじる。笛も巨漢の初顔で、巨漢でいけないわけはないが、へんに可笑しかった。いつもほっそりした小枝のような一噌仙幸の笛など聴いているものだから。
* 野村萬(万蔵)と与十郎の「富士松」という「連歌もの」狂言が珍しかったが、さして面白くも可笑しくもなかった。ただ、萬の狂言顔には感じ入る。好きな役者である。
* 喜多流の舞台を三十年見続けてきた。その間に、家元の喜多実はじめ後藤得三、佐藤章、友枝悠喜夫、粟谷新太郎らが亡くなった。若かった友枝昭世や塩津哲生らが流儀をひっぱり、家元喜多長世は逼塞し弟節世は病んでいる。喜多流の見所へわたしを誘い入れてくれた馬場あき子は健在で今日も姿を見たし、先日も朝日新聞社のパーティーで逢っている。だが、やはり馬場の縁で識った村上一郎、藤平春男には死なれている。段々寂しくなってきているのだ、だが、新しい知人もまた能楽堂で出来ている。今日も逢った小山弘志氏も、堀上謙氏もそうだ。
喜多の三十年、それは私の作家生活三十年ときっかり重なっている。『清経入水』が取り持って、馬場あき子の方からわざわざ逢いに来てくれたのが全てのきっかけだった。彼女の著名な『鬼の研究』の発端に、わたしの受賞作のなかの「鬼とぞ」が関わっていたらしい、その作中関連論文を読みたいと言ってきたのが出逢いだった。喜多節世師にわたしを逢わせたのも、「昭世の会」に原稿を書かせて佳い縁を作ってくれたのもみな馬場あき子の親切であった。
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粟谷能の会 粟谷菊生
私の師
私は初め父に習い、通いの内弟子として喜多実先生に師事しました。後に(十四世)六平太学校に入りますが、実先生は、「一所懸命弟子をこしらえあげると、オヤジが持っていってしまう」と嘆いておられたものです。六平太学校の一番の先輩は故友枝喜久夫先輩、若いほうでは孫の喜多長世(現六平太)さん、故節世さん、そして私は先生のお稽古に間に合った最後の弟子といえましょう。兄も私も、友枝喜久夫先輩には謡をずいぶん教わりました。友枝さんと兄との仲は、他人には計りしれないものがありました。