【主張】こどもの日 母子の語らい考える日に
2007年 05月 05日
2007/05/05 05:25
目に青葉鮮やかなまことによい季節になった。きょうは「こどもの日」である。兜(かぶと)を飾り、菖蒲湯(しょうぶゆ)を沸かして、ちまきやかしわもちで子供の健やかな成長を願い、お祝いをする家庭も多かろう。
国際化の荒波に洗われて、ともすれば伝統や習俗が軽視されたり、忘却されたりしがちな風潮があるが、なおそこかしこに大空高く鯉(こい)のぼりの泳ぐ日本らしい風景が見られることに心和ませる人もいるに違いない。
昭和23年に公布・施行された「国民の祝日に関する法律」には、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」とうたわれている。「母に感謝する」というところは祝日の趣旨の急所だが、いま案外見過ごされていないだろうか。
それはわが子を虐待する母親に象徴される、感謝されるべき資格もない母親が増えたことと、仕事に追われて子育てに十分手をかけられず、子供から感謝されてしかるべきなのに感謝してもらえない母親が増えたという二重の意味においてである。
子を虐待する親は、自分の幼少期に親から十分な愛情を注がれた経験を持たない場合が多いとされる。感謝したくなる母を持たない不幸が、不幸を再生産しているともいえる。
そこで、立ち止まって考えなくてはいけないのは、他の動物に比べて未熟な状態で生まれる人間の子供は、肉体の成長だけでなく、母語の獲得をはじめとした心の発達にも母性が不可欠であるということである。
働く女性が増えたのは時代の流れであるが、忙しさのあまり母子のコミュニケーションが細くなっているとすれば気がかりだ。もちろん子育てには父親の役割も不可欠ではあるが、子供の心の成長には母でなければできないことも少なくない。
子供への母性愛は生物的なベースとして厳然としてある、と主張する脳科学者もいる。それは至近の何十年間の子育てについての考え方や、その評価のモノサシをはるかに超えて、数千万年という霊長類の進化によって裏付けられている。
こどもの日を機会に、日ごろ仕事に忙殺されているお母さんには、互いの心にこだまし合うような母子語らいの時を心して持ってほしい。