人気ブログランキング | 話題のタグを見る

「二条河原落書」のネタ帳


by miya-neta

いいハコつくろう鎌倉幕府? 変わる歴史教科書

みんなのニュース:教育:MSN毎日インタラクティブ


 「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」。語呂合わせで覚えた年号は意外と忘れない。しかし、歴史の研究が進み、新たな発見があれば教科書の記述は徐々に変わる。学校で昔習った語呂合わせ、覚え直す必要がありそうだ。

 中学校の歴史教科書にある「鎌倉幕府の成立」。東京書籍の1987年の教科書では、年表の1192年に線が引かれ、鎌倉時代の始まりを示している。この年、源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命され、これを鎌倉幕府の成立としていたからだ。

 ところが、2007年版の教科書では1185年に線が引かれている。平氏が滅亡した年で、同年、頼朝は全国に守護・地頭を設置した。東京書籍では、頼朝の号令があまねく伝わるようになった点を重視し、2002年版ごろから、守護・地頭の説明の後に「鎌倉幕府を開いた」と記述。歴史書で鎌倉幕府の成立として1185年が強調され始めたことも理由の一つだという。山川出版の高校「日本史B」の問題集は、1185年を「鎌倉幕府が確立」、1192年を「名実ともに成立」と表記している。

 東京書籍の渡辺能理夫・社会編集部長は、鎌倉幕府成立が1192年とされていたことについて、「将軍がいないと幕府ではないからともいわれるが、頼朝は1190年に右近衛大将に任じられている。右近衛大将は将軍の一種で、家政機関である『政所』を設置できる」と説明する。渡辺部長は「(鎌倉幕府成立の年号として)1192年は誤りかと聞かれることがある。入試などで1192年を誤答にはできないが、校内の試験などでは先生によって正誤が違うこともあり得る」と指摘する。

  ◇                ◇

 歴史上の人物の肖像画も少しずつ変化している。聖徳太子の肖像画(宮内庁蔵)は、別人の可能性があると言われながら、お札の“顔”として定着していたため、教科書にも聖徳太子と「伝えられる」との表現でずっと掲載されてきた。ところが、源頼朝の肖像画(京都府・神護寺蔵=写真)も別人の可能性があるという。東京書籍は頼朝の肖像画について「国宝であり、一般に定着した絵なので削除はしていない」と説明。1987年版では「源頼朝の肖像画」としていた説明を「頼朝と伝えられる」とした。一方、足利尊氏を描いたとされていた絵は、1993年ごろから掲載されなくなった。

  ◇                ◇

 江戸時代の身分制度として習った「士農工商」も、中学校の教科書から記述がほとんど消えた。高校の日本史Bでは、山川出版の問題集で「武士はさまざまな特権を持つ支配身分で、被支配身分としては農民、職人、家持町人の三つが主なものとされた。こうした身分制度を士農工商と呼ぶこともある」としているが、東京書籍によると、中学校の歴史教科書で「士農工商」の言葉を載せているのは8社中1社のみという。「工商」がともに町人で、身分の違いではないこと、「農民が町人の上に位置する」のは俗説であることなどが理由だ。

 東京書籍の2007年版教科書は、「身分は武士と百姓・町民に大きく分かれ」「えた身分、ひにん身分などの人々がいました」などの記述があり、農民が約85%という当時の人口の割合を示したグラフが掲載されているのみだ。

 「百姓は雑穀を食べ、米を多く食いつぶさぬように」「百姓の衣類は、麻と木綿に限る」など、農民のぜいたくを禁じた「慶安の御触書」の扱いも変わってきた。1987年版では、「幕府が出した」と言い切っていた説明文が「1649年に幕府が出したと伝えられる」になった。渡辺部長は「慶安の御触書は(第3代将軍)家光の時代だが、この触書は江戸時代の後期に、どこかの代官が勝手に作ったものが広まったようだ。この時代に幕府の政治体制などが固まったため、『慶安』をつけたのだろう」と説明する。当時の農民の生活をよく表しているため、資料として掲載しているという。【岡礼子】

 2007年5月7日
by miya-neta | 2007-05-07 10:28 | 教 育