教育コラム:リッチな授業に増幅しよう
2005年 03月 14日
「学力」「学力」と、にぎやかになってきた。いいことだ。もっと議論が広がり、世界の中の日本の教育をどうするか、新しい教育をどうつくるか、たくさんアイデアが出てくればいいと思う。
ところが、話はそうは運ばないようだ。知の時代といわれる21世紀に相応しい教育を論じようという動きより、「ゆとり教育」や「総合的な学習の時間」の批判、「土曜日も授業を」という回帰的な動きばかりが目立つ。先生の話を聞き、板書を写し、九九を唱え、英単語を覚え、黙々と書き取りをする--そんな自分たちが学んだやり方が最適と思っている人たちが声高に批判を展開しているように見える。
「勉強はつまらないものだ。だから叩き込むしかない」と言う人がいるらしい。取材で「面白い授業」という私の言葉に眉をひそめた年配の男性教諭もいた。そういう人たちはなるべくたくさん、必要なことを教え込め、児童生徒は歯を見せずにまじめに聞け、と思っているのだろう。だが、それでは、子供の気持ちは暗く、貧しくなる。
多くの教員は、現実の世界を理解し、自分の進む道を拓いて行くのに必要な力を付けさせたいと思っているに違いない。子供が新しい世界をつかんだ時の笑顔を喜ぶに違いない。そのために、授業をどれだけリッチで興味深くするか、内容の広がりとつながりをいかに示すか工夫、苦労しているのだろう。
ITはその助けになる。だが、それを知らない人が多い。教員だけでなく、教育に関心を持っているはずの首長ら自治体の幹部や議員、そして父母も教育へのIT活用について認識が乏しいようだ。
ITは授業のアンプ、つまり増幅装置だと思う。先生にとっては、教え方、伝え方、授業の面白さ、クラスの連帯・・・・を増幅するものだし、子供たちにとっては、興味関心、集中力、疑問、理解、笑顔・・・を増幅する道具だと思う。そのことを多くの教員、自治体の人、そして父母に理解してほしい、と思う。少なくとも、毛嫌いしたり無視したりしないでほしい、と思う。
だからといって、過剰な期待も困る。ITは増幅器であって、先生の教え方をうまくしたり、教員に代わって授業をしてくれる道具ではない。どんなすぐれた増幅器も、元がなければ手も足も出ない。ゼロはどんなに増幅してもゼロなのだ。教員の教えたい、伝えたい、分ってほしいという気持ちを、ITは生み出さない。
教員の意欲とITが出合った時、時代を意識した新しい教え方や学び方が生まれるのだろう。アイデアが生まれ、議論が育つ、そこに期待している。(平野秋一郎)
2005年3月9日