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「二条河原落書」のネタ帳


by miya-neta

平城京:途中で「京域」縮めた? 「大発見」謎も新たに

MSN-Mainichi INTERACTIVE 学芸


 平城京は「百年の定説」より広かったのか、造成途中に埋め戻した幻の京域があったのか--。奈良県大和郡山市の下三橋(しもみつはし)遺跡で見つかった平城京跡の南に広がる条坊遺構。幕末、明治に定説化した平城京の南北九条のプランを見直す約100年ぶりの「大発見」に、調査担当者も研究者も色めきたった。しかし、京の南端を限る羅城の跡が九条大路で見つかったことで、平城京に隠されていた謎が新たに浮かび上がった。【大森顕浩】

 ■十条大路を計画?

 左京(東半分)の南辺に隣接する地域は、南北幅約450メートルにわたり、水田の区割り規格が周囲と異なる。これが京域の条坊の名残であるとして以前から十条大路の可能性を指摘していた阿部義平・国立歴史民俗博物館教授は「当初は南側を十条大路として計画していたが、途中で九条大路まで縮めたのではないか」と話す。

 調査を担当した佐藤亜聖・元興寺文化財研究所主任研究員は「藤原京の計画プランは東西、南北とも十条の5.3キロ四方。この大きさで平城京も造成を始めたが、南西隅は丘陵があって断念し、南東隅だけ残すと形状がいびつになるため途中で廃絶した」と解釈する。

 ■作業員宿舎?離宮?

 市教委とともに調査した元興寺文化財研究所の坪井清足所長は「平城宮の発掘をするために奈良国立文化財研究所(当時)に入ってから50年ぶりの大発見」といい、「何もわかっていなかった京の外の様子がわかった。平城京を造営した作業員の宿舎があったのではないか」と話す。

 平城京の南辺には端から端まで羅城が設けられていたとする説を98年に発表していた井上和人・奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部考古第一調査室長は、今回の羅城跡の発見で自説が裏付けられた形。南北十条説を否定し、「新たに条坊が見つかった一帯は光明皇后の死去後、皇后ゆかりの寺に寄進された。京に付属する皇族の離宮や外交使節団を迎える場所ではないか」と指摘する。

 ■遅れた羅城門建設

 海外から訪れた使節が必ず通ったとされる羅城門の前の濠(ほり)には橋が三つあったとされ、「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、唐や新羅の使節を、この三橋で出迎えたとの記述がある。遺構のある下三橋町の名前の由来もここにあるという。

 千田稔・国際日本文化研究センター教授(歴史地理学)は「遷都時には羅城門はなかったのだろう。聖武天皇の即位(724年)を機に、平城京整備の見直しが行われ、九条より南の条坊も埋められた。その時に京の南辺が確定し、羅城門と羅城が出来た」と分析する。

 ◇解説 律令国家の内実反映か

 平城京(710年遷都)は古代日本の都の完成形であり、702年の大宝律令施行によって完成した律令国家の姿を反映している。平城京の都市計画についての想定を覆した今回の発見は、律令国家の内実についても見直しを迫る。

 九条大路の南で新たに見つかった条坊(街区)は、平城京ができて間もない730年ごろに人為的に埋められていた。この時期は、「咲く花のにおうがごとく今盛りなり」(万葉集)と歌われた平城京の全盛期だが、律令制の矛盾があらわになった時期でもあった。

 律令制は、6年ごとに6歳以上に口分田を分け与えて租税を徴収(班田収授)する公地公民制を根本とした。ところが、口分田が不足し、それを補うために722年には百万町歩の開墾計画が出され、翌723年には、開墾した土地に池や水路を設けた場合は曽孫の代まで占有を認める三世一身法、743年には開墾地の永久所有を認める墾田永年私財法が発布された。

 これらは開墾の奨励によって律令制の欠陥を補うための策だったが、土地私有に道を開き、律令制を形がい化する第一歩ともなった。

 このような時期に平城京の南が埋められたのは、平城京を完成した律令国家の都として南北十条で造成したものの、あまりにも立派すぎて計画倒れとなり、遊んでいる宅地を耕地に振り替えた可能性が考えられる。

【佐々木泰造】

毎日新聞 2005年8月27日 0時38分
by miya-neta | 2005-08-27 00:38 | 伝統文化