【正論】多摩大学情報社会学研究所所長・公文俊平 中国はどこへ行くのだろうか
2007年 07月 15日
■調和・規律を価値観に「脱近代」を
≪中国の3つのシナリオ≫
米国の中国研究家ジェームズ・マンは、近著『危険な幻想』(渡辺昭夫訳、PHP研究所)の中で、3つのシナリオを示している。
その第1は「気休めシナリオ」で、中国は自由化と民主主義に向かって前進しているというものである。このシナリオは米国人の間ではもっともポピュラーだが、まったく現実的ではないとマンはいう。
第2のシナリオは「激動のシナリオ」で、近代化はやがて挫折し、現体制は崩壊するという見方だが、これも現実性に乏しい。
そこで残るのが、米国ではほとんど無視されているが実はもっとも可能性が高い「第3のシナリオ」で、「近代化した経済を背景とする恒久的な独裁体制」が確立するというものである。
しかし、そのような体制は、近代史上初めてというわけではない。前世紀のナチス・ドイツとコミュニスト・ソ連は、いずれもその種の体制を志向していた。前者は「第三帝国」建設をめざす軍事的冒険に乗り出し、短期間で瓦解した。後者は「平和共存」路線をとって比較的長期間存続し得たものの、国民を豊かにする「共産主義社会」の実現には失敗して、これも瓦解した。事実上の軍部独裁の下に「大東亜共栄圏」の建設をめざした日本も、敗戦、占領の憂き目をみた。
これらの諸国は、その後あらためて出直し的近代化を試み、自由化と民主化と経済発展の道を歩むことに成功した(ただし、ロシアについては、ふたたび「恒久的な独裁体制」に向かうのではないかという懸念が残る)。
≪「前車の轍」を踏まない≫
そこで中国だが、マンのいう「第3のシナリオ」には、かつてのドイツ・日本やソ連に似たケースがやはり含まれるのではないか。もしも中国が、対外的な冒険主義に走ったり、国内の経済運営に失敗したりすれば、最終的には自由と民主主義の道に向かうにせよ、その過程で世界と中国自身が払う犠牲は大きすぎると考えざるをえない。
もちろん賢明な中国の指導者たちは、軍事力と経済力のひたすらの増強につとめるあまり、内政あるいは外交の面で「前車の轍(てつ)」を踏む結果にならないよう、細心の注意を払うだろう。しかし、21世紀の世界は「地球温暖化」のような深刻な環境問題にも直面している。これは20世紀の経験に学ぶだけでは対処できない、新しい事態である。
私はかねがね近代文明は前世紀の後半以降、その「成熟局面」、つまり近代を超える「ポストモダン」ではなく、近代自身がその有終の美をなす「ラストモダン」の局面、「軍国化」と「産業化」に続く「情報化」の局面に、入ったと主張してきた。そこでは「進歩」は依然として理念的価値であるばかりか、現実にも、現代物理学や情報技術に代表される科学技術の不断の進歩が続くと共に、人びとは「闘争」や「競争」よりは「共働」を通じて、グローバルな諸問題に対処しようとするようになると予想してきた。現実世界での軍事的・経済的な成長にはブレーキがかかるにせよ、バーチャル世界での経済成長は過去に例を見ないほどの速さで持続し、それが、資本主義的な「富のゲーム」に追加される智本主義的な「智のゲーム」の基盤となると想像してきた。
≪独自の価値を唱道する≫
では、そこに中国はどのような形で参入してくるのだろうか。中国の「第3のシナリオ」が、結局のところ20世紀の近代化後発国にとってのシナリオ、つまり開発主義的ないし膨張主義的シナリオと大差のないバージョンになるとしたら、耐えられない。だからといって、中国が一足飛びに成熟した近代に歩みいると期待するのは「気休め」にすぎないとすれば、21世紀型というか、まさしく中国独自の「第3のシナリオ」バージョンが用意されることを期待するしかない。
ことによると、それこそが「ポストモダン」の文明の構築シナリオかもしれない。近代文明の中核的価値が進歩、能動、自由、民主などであったとしたら、これからの中国は、そうした近代的価値の受け入れではなく、別の価値を唱道する目的で、「智のゲーム」に積極的に参加してはどうだろうか。
たとえば進歩ではなく標準を、能動よりは調和を、自由に代えて規律を、民主に対しては権威を、これからの中国がめざす価値だとして世界を説得するのである。中国が近代化の成熟局面の足をひっぱるのではなく、世界が真のポストモダン文明に向かって進んでいくための旗振り役を発揮することを期待したい。
(くもん しゅんぺい)
(2007/07/15 05:01)