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「二条河原落書」のネタ帳


by miya-neta

小林弘人の 誰でもメディア宣言

NBonline(日経ビジネス オンライン)


Vol.1 「出版」をバージョンアップする

2007年5月30日 水曜日 小林 弘人

 最近、新聞紙面では、海外メディア企業の国境を越えたM&A(企業の合併・買収)が取りざたされました。イギリスのロイターとカナダのトムソン、この金融情報を提供する2大企業の合併は世界規模でメディア再編が起きていることを意味しています。

 もう一方で、「メディア王」の異名を取るルパート・マードック氏率いるニューズ・コーポレーションが全米最大の経済情報紙「ウォールストリート・ジャーナル」を擁するダウ・ジョーンズに買収提案を行いました。

 このように、生き残りを懸けたメディア再編の波は激しくうねっているのですが、われらが日本のメディア業界は一見、穏やかな波、いや、さざ波すら立っていない紺碧のブルーといった様相をかねて呈しています。

 しかし、実は水面下では、鳴門海峡も真っ青な渦が巻いています。この渦を看過していると、ここから先の10年、いや、20年先までもが決まってしまうというのにもかかわらず、日本のメディア人の多くはこの事実に気づかないのか、あるいは気づいても、手足を縛られなにもできないというのが現状なのかもしれません。

 本稿は、その「渦」について、書こうと考えています。ただし、旧来のメディア業界やその業界人に向けて書くものではありません。むしろ、一般企業、あるいは個人に向けて書こうと考えています。

 その理由は、メディアとは、すでに一部の特権的な基盤のうえに成り立つものではないからです。「意志」さえあれば、だれでもメディアを持つことができる、それがいまなのです。

 では、どうぞ今後しばらく拙稿におつき合いいただければ幸いです。


「メディア」だと自覚していないメディア企業たち


 これまでさまざまなところから依頼を受けて講演を行ってきました。

 講演先として、広告代理店や新聞社、地方自治体、またメディアへの人材輩出を考えている大学などが挙げられます。

 テーマはまちまちです。

 たとえば、米国の出版社のウェブへの取り組み紹介だったり、あるいはネット上のバイラル動画製作やCGM(コンシュマー・ジェネレーテッド・メディア)などへのプロモーション、ブログを駆使したゲリラマーケティングなど。

 でも、共通して言えるのはネットを使ってメディアをどう組成するかということと、それをどう人々に売り込んでいくかという具体的な事例と心構えについてだと思います。

 まあ、それぞれまちまちですが、依頼されるテーマは割と共通しているんですね。これはどういうことかと言うと、いろんな組織がメディア化しているということなんです。

 「ちょっと待て、新聞社は立派なメディアじゃないか」というご意見もありますよね。それはそうです、まったくもってその通りです。

 しかし、メディアだという自覚がないメディア企業も多いのですよ。いや、ホント。

 たとえば、多くの出版社は「ウェブはIT(情報技術)企業、出版は出版社」と考えています。それは自分たちの主戦場はウェブではなくて、本屋さんやコンビニの店頭だと区別しているからです。

 なので、私が講演した某新聞社やその集まりは、「まだ自分たちがメディア企業であり、情報の配信先はいろんなところにある、あるいは、自分たちのライバルは新聞社だけではない」という認識を頭の片隅にちょっとでも置いているから、私のような人間を招いて話を聞いてみたいと考えたのでしょう。

 ところが、出版社の方と話をしていると、「あなたの会社はなぜ紙とウェブの出版を両方やっているのか?」とか「腰が定まりませんねえ」と言われるのです。

 私から言わせると、なぜ「紙」と「ウェブ」の出版を分け隔てて考えているのか、理解できないというのが正直なところです。

 また、逆に「出版業界の売れ行きが長期において芳しくないが、出版はこれからどうなってしまうのか? ウェブメディアの識者として出版はもうダメかどうか教えてほしい」という質問も寄せられたりします。

 私の答えは決まっています。


出版の価値は増大し、「出版」という概念は滅ぶ

 「出版」という行為は不変だし、これからも「出版」は続きますよ、と。むしろ、「出版」の価値は増大しているのではないでしょうか。

 でも、出版社の内側・外側問わず、多くの人が定義する「出版」はすでに死滅した概念であると思っています。

 有名マンガのセリフを借りるなら、「お前は、すでに死んでいる」といったところだな。

 さて、「出版」は不変、と言いつつも、「出版」は死んでいる、とは奇妙に聞こえるでしょう。

 もうちょっと整理すると、いままでの「出版」という言葉がすでに死滅しているということで、これからこの「出版」という言葉を再定義する必要があるよなあ、というのが私の問題意識なのです。

 ウェブでは「ウェブ2.0」と「それ以前」というように、言葉の定義がバージョンアップされますが、出版に関しては固着したままで、バージョンアップの是非は問われません。

 よって、私が本稿で言うところの「出版」とは、「出版2.0」のようなアップデートされた出版のことなんですが、出版社や新聞社に近い人ほど、「出版」という言葉を使うと、狭義の意味として捉えられがちなので、この話は私が意図していない方向に進んでしまいます。

 ある講演では、ウェブメディアにおける新しい出版というものについて説明したことがありますが、その講演後の質疑応答で、「今後の出版を考えるにあたって、再販価格制度をどう思うか?」と問われた経験があります。

 そもそも紙に印刷したパッケージ商品を取次経由にて書店で売ろうなんて話をしていないし、どうも思ってないってば。

 「出版」という言葉を使う以上、「出版2.0」においても誤解がつきまとうわけです。

 またある質問者は、「出版社に入るにはどうしたらいいか?」とも尋ねてきました。

 私としては「出版社に入社せずとも、今晩にでもメディアは立ち上げられるよ」という話をしたつもりでしたが、 その質問者にとって「出版」とは、出版社に入社しなくてはできないもので、なおかつその思考からは離れがたいという印象でした。

 お前は、すでに死んでいる(笑)。

 多くの人にとって「出版」というのは、紙に印刷したコンテンツを全国の書店・コンビニエンスストアに流通させ、読者に販売した利益と企業からの広告によって利益を得る商行為のみしか指していないため、その意味においての「出版」と私が語る「出版」がズレてしまうわけです。


Publishingとは「公にする」ことだ

 「あなたはウェブのメディアのことばかり言うけれど、日本の津々浦々、ほぼ同日に雑誌を配布する取次のシステムは凄いのだ」とか、「支払いサイトが短いから、老舗出版社は現在の出版ビジネスから脱する思考を見つけ出せない」とか、それはその通りだと思いますし、それを否定するつもりはありません。しかし、私が言うところの「出版」において、そういうことは一部の話であり、そこに依拠していなくても出版という行為は成立するのだ、という話を私はしたいのです。

 多くの人たちにとっての出版とは、取次機構を通して全国にバラまく紙の雑誌や書籍、新聞しか指していないような気がします。また、多くの人は出版というものを講談社や集英社が行っていることとして捉えています。

 しかし、リクルートだって出版社であり、ベネッセだってもともと出版社です。アルクもぴあもそう。でも、これらの企業のビジネスモデルは出版を軸にしつつも、違うものになっています。これらの企業を「出版社」として捉えたら、実は「出版」という言葉も多様であるということが理解できるかと思います。

 さらに、音楽出版社は、音楽著作権の管理がその中心となりますが、ここでも「出版」という言葉が多義的であり、もしくはビジネス環境が変われば変容してしまうものであるということを理解していただけるかもしれません。

 私が本稿で言うところの「出版」は、「Publishing」、つまり公にするという行為を指します。そして、その結果、それがメディアとして認知、あるいは価値を換金できるようになったり、その過程における行為を指します。

 これまでの「出版」は、具体的な流通販路で商品パッケージを販売することを表す言葉として定着していますが、新しい時代の出版とは何か、ということを探ってみたいというのが本稿の目的でもあります。

 しかし、前述したように「出版の未来」と銘打った私の話は、従来「出版」に属する一部業界に向けた話だと誤解されてしまうため、こんな長い注釈を書いたわけです。


  そう、注釈だったのよ。長っ!
(つづく)
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Vol.2 アテンション資本主義と、企業広報


Vol.2 アテンション資本主義と、企業広報
 
 前回、「出版」という概念の変容とインターネットの水平線上に情報を載せたとたん、それはコマース会社、もしくはシステム開発会社、あるいはオールドメディア企業のものであろうが、すべてはメディアになるのだ、という話をしました。

 今回は、なぜウェブの地平に載ったコンテンツがメディア化するのか、ということについて、特に企業向けにお話ししたいと思います。

 ということで、今回はエンタープライズ仕様なのだ。

「注目」経済、アテンション資本主義

 すでに、皆さんはAttention Economy(アテンションエコノミー)という言葉について、聞いたことがあるかもしれません。

 私の理解におけるアテンションエコノミーとは、インターネットやさまざまなメディアインフラの普及により、情報が超供給過多となり、その中で人々の注意(アテンション)を喚起すること自体が、経済活動の中でも重要な役割を占めているということです。そして、人間のアテンションは無限ではなく、有限であるため、狭いパイの奪い合いとなるわけです。

 実は、2005年、サンフランシスコで開催されたあるカンファレンスで、私はアテンションエコノミーと銘打った講座を受講したことがあります。モデレーターは、「Linux Journal」編集長のドク・シールズ氏でしたが、そこでは、「情報公害」からいかに自分たちを守り、アテンションを受け渡さないために防衛していくか、というユーザー側の権利を訴える内容でした。

 本稿では、企業の経済活動として、このアテンションエコノミーという言葉を用いています。言い換えれば、アテンション資本主義とでも言いましょうか。ウェブではトラフィックが通貨と言われますが、まさに、メディアにおいては、アテンションこそが通貨です。

 また、私個人は企業側によるアテンションコントロールを適切なものに振り当てれば、「情報公害」は逓減させることができるのではないかと思っています。大切なのはアテンションの濫用ではなく、グッドインテンション(善意)に立ったアテンションエコノミーであり、そこへの第一歩は、まず発信側企業がコンテンツの運用にメディアとしての自覚を持つべきだと考えています。

 もう退屈なお仕着せコンテンツや、うざいSPAMは要らないってことなんだけどね。

時間の奪い合い=主導権は企業からなくなった

 いつも、メディアが新しいメディア(たとえば、テレビがインターネットに/本が携帯電話に/映画がDVDに)脅かされているという話は、人間の時間が有限資産であるため、可処分時間を巡り、さまざまなデバイスがパイの奪い合いを行っているという話だったりします。

 しかし、多様化するライフスタイルの要求に合わせて多メディアが確立され、ワンセグやFMC(Fixed Mobile Convergence:固定通信網と移動体通信網の融合)、さらにその先のNTTが提唱する次代の通信網NGNなどが実現された場合、多くのデバイスには遷移なくコンテンツが供給されるため、多メディアは多チャンネルを意味することでしょう。

 また、そんな近未来の話をせずとも、すでにインターネット上の多くのコンテンツデータはRSS/ATOMなどでフィード(配信)され、シンジケート(組織・連携)されています。すると、それらを収集するアグリゲーションサイトでは、多くのコンテンツは等価に併置されるため、ユーザーにとっては、個別コンテンツにどのくらいアタック(惹き)があるか、表題や件名がにわかに重要性を帯びてきます。

 すでに、多くのポータルサイトでは、大した内容でもないニュースにあざといタイトルがつけられ、ついクリックしてしまった経験を持つユーザーも少なくないことでしょう。これが、いまそこにあるアテンションの争奪戦です。

 もちろん、派手な化粧ばかりで、中身がなきゃ飽きられるよん。

 紙のメディアと違い、パッケージングされた文脈から切り離されたコンテンツは、単独にデリバリーされたとき、ユーザーのアテンションをどのくらい喚起できるのでしょうか。

 また、多チャンネル時代において、どのコンテンツが勝利を収めるのでしょうか。

 つまり、アテンションが有限資産であるからこそ、苛烈なアテンション争奪戦が起きるのです。そんな中、企業の情報活動はこれまでのような「自分たちが言いたいことだけを言う」トップダウン型では、もはや相手にされません。
(つづく)
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Vol.3 「ハルヒ」のヒットは“憲章”のおかげ

2007年7月25日 水曜日 小林弘人

 前回、ストーリーを提供することにより、コミュニティが組成できると言いました。ただし、「企業が言いたい情報」を一方的に送り続けているだけでは、当然のことながらコミュニティは組成されません。

 ストーリーにより、信頼やブランドが醸成される時代です。ストーリーは、テキストだけで構成されるとは限りません。動画や音声などのリッチコンテンツはもちろん、ユーザーによるフォーラム(掲示板)、ブログやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、Wikiも駆使し、紡がれていきます。

 以前に、ネット上で話題となったアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」について、原作を持つ角川書店の野崎岳彦氏(スニーカー文庫編集長)に話をお伺いしたことがあります。アニメがヒットし、さらに原作が売れまくったというヒットの連鎖について、その要因を聞いたのです。

「ハルヒ」ヒット連鎖の理由

 同アニメのヒットにおいて、メディアミックス(YouTubeへの画像投稿など)は副次的な現象であり、そのカギは、私なりの言葉にすると「ストーリーの共有と創出」だったのではないかと思いました。
(参考記事)【ヒットの“共犯者”に聞く】
涼宮ハルヒの場合 I
角川書店スニーカー文庫編集部インタビュー その1
 野崎氏は、同作品には文庫の上位に、「ハルヒ憲法(憲章)」のようなものがあり、主人公のハルヒならこうする、という行動の指針として、演出やストーリーの制作の折に照らし合わされるとのことでした。そのため、アニメも音楽もプロたちにより、その「ハルヒ憲法」によってつくられ、さらにユーザー(読者や視聴者)たちも、その憲法を理解・共有し、そこにYouTubeやブログを通じて参画することで、さらなる大きなムーブメントが起きるまでに至ったのではないか、ということです。
(参考記事その2)【ヒットの“共犯者”に聞く】
涼宮ハルヒの場合 VIランティスのプロデューサーにインタビュー その1

 この場合、私がカギと言ったのは、優れたストーリーを提供することさえできれば、多くの人たちがそのストーリーを中心にメディアを創出し、さらに大きなストーリーを紡ぐことができる、という可能性のことです。

 これまでのメディア組成はトップダウン型でしたが、現代はフィードバックや新しい提案も含めて、メディアは複合的につくられていきます。

 起点に編者がいるのですが、その起点から先は、単に読者が読んでオシマイではなく、読者からのリバースエンジニアリング、および、改変・改良が行われます。そのため、メディアを組成する構成員はプロばかりではなく、著作権的に非合法的なマッシュアップを行う個人も含まれてきます。さらに、どうでもいいような感想を述べるイマイチな個人ブロガーも、検索エンジンから見た場合には、重要な構成要因となります。

 「ここがダメ、あそこがダメ」と批判をする人も、外部デバッガーとして有益な存在だね。

 マッシュアップを許容し、むしろオフィシャルにそういう場や機会を用意してあげることで、ストーリーはさらなる価値を帯びるかもしれません。

 そして、集合知が集合愚に変わるという脆弱性を回避するには、よりニーズに合ったストーリーの提供と、そのメディアスパイラル自体の設計仕様(編集計画)をどうするのかが重要です。
(つづく)
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by miya-neta | 2007-07-25 09:00 | メディア