【団塊はいま】 「世代」の才人・橋本治さんに聞く
2007年 08月 04日
2007年08月04日
東大紛争があった68年、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている」の大学祭ポスターで世に出たイラストレーター橋本治さん。サブカルチャーの旗手は「アーヤダ」「やめて欲しいわ、ホント」の「桃尻語」遣いを経て、今や古事記から現代まで日本文化史を縦横に駆けめぐる“大”作家となった。人が思いもよらぬ本質をズバリと言い当てる団塊世代が生んだ才人に、その「変な人」ぶりを聞いた。(木村彰一)
◆平安女流文学は「少女マンガ」
《10年越しのハシモト版平家物語を脱稿。枕草子から徒然草、源氏物語、日本美術史と、気がつくと日本文化をめぐって相当な仕事量になりますね》
自分の中では、日本文化が中心にあるんです。10代の頃から、自分は日本人で日本の上にいるんだけど、どうも現代とはマッチしないなあと。自分がふだんしゃべっている言葉は日本語なんだけどあんまりちゃんとした日本語ではないという感心されなさ加減があって。でも変だな、これはちゃんとした日本語であってしかるべきだ、という生理みたいのがどっかにあるんですよ。
そうすると、あ、これは江戸の言葉なんだな、とかっていう自分のルーツみたいのが過去に点在してるのね。それをつなぎ留めて引っ張り上げないと、現代の自分の居場所というのが位置づけられない。実はもう40年くらいずっとそうですね。
《29歳の小説デビューは、女子高生の語りでつづった「桃尻娘」でした。そして枕草子を「桃尻語訳」してしまう》
女子高生が何かしゃべってるってことは文化でも何でもない、みたいな言われ方してさあ。そりゃ、うそだろう。平安時代の女流文学というのは位置づけとしては現代の少女マンガだろ、というのがあったから、枕草子がもしかしたら桃尻娘の言葉で訳せるんではないかって、ろくに読んでもいないうちに当たりつけちゃったんですよね。
源氏だって定説として知ってたのは「母恋いの物語」っていうだけで、俺(おれ)はそんなもの信じない、というところから始まっちゃいましたけど。
何でこんなふうになったかというと、完全に団塊世代のあり方とシンクロするんですけど、二十歳くらいで安田講堂が落ちてしまって、東大の入試が中止になって――ともかく学生が暴れてしまって教授が怖がっているんですよ。専門に進んだとき教官連中が「あなたたちが何を書いても構いません。ただ、私たちにわかるように書いて下さい」。「あ、それでいいんだ」ってそれを素直にのみ込んで……。勉強というのは自分がわかりたいことをわかるということであっていいんだな、と思った。
で、そのまんまなんですよ。勉強というものを初めて好きになったなと思った瞬間、大学というのは崩壊して学問の焼け跡に立っちゃった。
◆「孤立を求めて連帯を恐れず」
《「とめてくれるなおっかさん」のポスターは「男東大どこへいく」と結ばれていました。この時代感覚は全共闘の象徴のように引用された》
全共闘の中の遊び心をたまたま代表しただけですよ。イヤじゃん、ダサイじゃん、という。全共闘というのは風俗的な改革者の部分もあるから。
私は左翼に反応しない人だったから。やっぱりイデオロギーの時代でしょ、大学入ってフランス語の先生が「インターナショナル」をフランス語で歌いましょうって。皆(みんな)平気で歌ってて、どこでインターナショナルなどというメロディーを覚えたの? 俺はなんか違うところに来てしまったのかもしれないと……。
高校のとき、西洋思想とか俺はさっぱりわかんなくて。アダムとイブの原始状態では何とかが、って、でも日本にアダムとイブはいないぞ、日本の原始状態のイザナギ、イザナミは何なんだ、っていう別の方向に入り込んじゃって。
《団塊の世代の一員だと意識しますか》
30代の前半にはいっときそういうこと考えました。考えたけど、全共闘の時代というのが実は好きではないんですねえ。マスヒステリアとしか思ってない。高校のときにも経験して、大学の2年のときにも経験して、いい加減いやんなる。
《高校時代の受験戦争、そして大学紛争》
恐ろしいことにある日突然、クラスメートの表情が変わるんですよ。信じられないです。
ただ全共闘世代っていうくくり方をしたって、大学行かなかった人間いくらでもいるわけじゃないですか。30代の初めくらいに少女マンガの評論みたいの書いてて、作家たちはみんな団塊の世代の女なんですよね。大学行って政治闘争するというのと全く違う世代の流れがある。
70年代頃のレコード大賞歌手の大半は団塊の世代なんですよ。都はるみだの、森進一だの、沢田研二だのって、オリジナルな表現に行けた人たちがいる中で、自分がなんかグズグズしてるのは恥ずかしいって……。
《「連帯を求めて孤立を恐れず」という言葉もありました》
それひっくり返して使ってましたよね。「孤立を求めて連帯を恐れず」って。だってさあ、60年代の終わりくらいって孤立ってさせてくんないもん。うるさいうるさい。だから、これで孤立してもいいんだな、って段取りできた方が自分は仕事しやすかったし。
その後、インタビューみたいの受けて人と会ったりするときに、「橋本さんと同じ年齢だと思うんですけど」みたいな言われ方すると、「生まれたときが同じだから何だっつうんだ」っていうふうになっちゃって、ね。
たぶん団塊の世代というのは日本人の中でも鬼っ子の世代のような、ちょっと違ってるというのはあるんだけど、俺が団塊の世代的であるんだとしたら、最も違ってるというとこだけですよね。
◆サブテキストの多さが豊かさ
《紛争には無関心で、69年1月の安田講堂封鎖解除の時は歌舞伎を見に行っていたそうですね。でも2月の建国記念日には、祝日反対の同盟登校で大学に行ったとか》
反対とかを超えて、おれ生理的にダメなの。それはもう不思議な体験なんですけど、小学校上がる前から、宮崎の高千穂神社で撮った記念写真見て気持ち悪くなった。二重橋みたいなの見るとダメだった。靖国神社とか怖いとかっつうのがね。日本陸軍とか、ダメ。
前世にいじめ殺された陸軍の兵士かな、というふうにしか説明つかないかもしれない。子どもって雰囲気ですべてをのみ込む直感能力みたいなものがあるから、そっちなのかもしれないとは思うんですけどね。
それがあるから、号令かけられるのイヤ、笛鳴らされるのイヤ、整列させられるのイヤ。
《学校ではどんな子だったんですか》
つまんない説教されることは多かった。授業は聞いてないし、授業中、平気で歌うたってて。男の先生にほめられたこと一度もないんですよ。女の先生にはひいきされてたんだけど、男の先生からは怪訝(け・げん)な顔されるということに関してはあきれるほど経験しててね。
よく考えると中学高校の勉強つうのは、う~んそういうふうに教えるんだろうなと納得できるけど、おれはそういう風に教えられても理解できない子だなっていうとこがどっかにあんですよね。
いま「教科書書いてください」みたいなことも言われることも多いんだけど、教科書っていうもの自体を信用しないんですよ。基本線の大本みたいなもんでそれがないと困るかもしれないけど、それがすべてであるわけは全然なくって、教科書しかないということがもう貧しさの最たるもので、教科書の周辺にサブテキストのようなものがいっぱいあるということが実は豊かなものであるから、おれは命の限りサブテキスト作り続けるということがあってねえ。
《最後に自分の世代のネーミングについて》
「団塊の世代」っていう言葉は大人になってから他人に与えられた括(くく)りだから好きじゃないんですよ。「全共闘世代」にも隔たり、ためらいはある。「ベビーブーム世代」だったら好きなんですよ。そうすると小中学生くらいの頃であって、素直に共有できる。そういうスタートラインから旅立ってきたというのはあるけど、もういいじゃないか、というのがホントのところですね。
■はしもと・おさむ 1948年東京生まれ。東京大学文学部国文科卒。在学中からイラストレーターとして活躍。77年「桃尻娘」で小説現代新人賞佳作。96年「宗教なんかこわくない!」で新潮学芸賞。02年「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」で小林秀雄賞を受賞。ほかに「窯変源氏物語」「双調平家物語」「ひらがな日本美術史」「『わからない』という方法」など著書多数。